私はシールを集めない。
今や爆発的な人気を誇っているシール交換文化だけど、
流行に対するアンチテーゼとかそんなもんでもなく、
単純に、小学生の頃ドはまりしていたシール交換に
あの頃と同じような熱量を持って「所有したい」という気持ちがまるでない。
もちろん、大人になってもシール交換を楽しんでいる人はたくさんいるし
「子どもに影響されてつい自分もハマりだした」という人も
いると思うし、夢中になれることがあるのは素敵なことだ。
これはシールに限った話ではなく、
子どもの頃夢中だったものに、大人になってから改めてハマるというのは
ままあることだと思う。
が、私にはそれがまるでない。
懐かしむことはあっても、「これはあくまで子どものコンテンツ」と、
脳が処理してしまう。(理屈抜きに)
だからどんなにキラキラで可愛いシールも、
セーラームーンのムーンスティックにも、
感情を動かされることはひとつもない。
先日Xでこんな記事を見た。

要約するとつまりこういうことである。
と頑なに買わなかった。
今しかできない経験をしてほしかった。
「すぐ飽きた、大人だしね」
「今しかできない経験を…」という気持ちも分かる。
またあの世界観を見れるんだと思って、ウキウキしながら買ったけど
結果2巻を買うことはなかった。
全く別のものを見ているかのようで、
どうしようもなく悲しかった。
たとえば20代前半にドはまりしていたのは
セックス・アンド・ザ・シティ。
あの4人の友情や恋バナに激しく共感したり、
憧れたりしていた。
なんなら魔法陣グルグルと同じく「セックス・アンド・ザ・シティ2」は見ていない。
もはや私の感情を1ミリも動かさない。
もう純粋にあの世界を楽しめることはなくて、
「もし私が神だったら、私は青春を人生の終わりにおいただろう」
これは、フランスの詩人、アナトール・フランスの残した言葉である。
とんでもない、と思う。
今更青春に来られても困る。
あれは人生経験が少なく未熟で愚かな時期だからこそ、価値がある。
人生のオワリになんて持ってこられても、
あの頃と同じくらい楽しめるかと言われると全くそうではない。
私たちはもうあの頃のように傷つき、のめり込み、無様に駆けることなんてできない。
未熟で、愚かで、何にでもなれると勘違いできたあの期間限定の全能感こそが、
青春の輝きそのものだった。
どれほどお金を積んでも、大人になった脳では再現できない。
前述の記事の内容に戻るけど、
「子どもをゲームにはまらせなかった親」
解釈によってその印象は180度違う。
もちろん、スマホであれゲームであれ
日常生活に支障が出るほどハマらせるのは良くない。
が、ルールや作りや、それを守らせることを放棄して
一律禁止!とするのは、はたして誇るべきことなのだろうか。
「すぐ飽きた。もう大人だしね」
という次男の言葉が悲しい。
それは成熟ではなく、感性の死ではないか。
奪ったのだと思う。もう二度と戻らない子どもの頃限定の夢中を。
思うに、もっと愚かさを認めてもいいのではないか。
コスパ・タイパ・将来に役立つかどうか、
そればかりで判断することは子どもの人生を奪ってないか。
たとえ3日後にはベッドと壁の隙間に落ちて放置されているとしても、
夏祭りの屋台でわけわからん2,000円くらいする光るカチューシャを買うことだってその時限定の楽しみだし、
多分二度と使わないのにディズニーで被り物を買うのだって
その時だけ、一瞬でも楽しめて思い出になるならそれがいい。
小さな頃は、乗り物にしか興味がなかった息子が、
ジョブレイバーにハマり、ドラえもんにハマっている。
世界を少しずつ広げているのが分かる。
その過程で、切り捨てられる「好き」があるのは仕方ない。
古今東西人間の進化には淘汰が不可欠だから。
何にもハマったことがない人間は不幸だ。
ハマる対象を親から選別・限定されることも、同じくらい不幸だと考える。
その時期にしか咲かなかったはずの感受性の芽を、
親の好みや都合で摘み取ってしまうことの罪は大きい。
「もう自分では味わえない」
そういう寂しさを抱えながらも、
二度と戻らないあの熱量を、我が子を通して再び見ることが出来る。
間違いなく、親になって良かったことのひとつだと思う。
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